四十九日目
無意味なことに意味を与える
Kimberly Murray
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、
わたしの道はあなたたちの道と異なる」と主は言われる。
(イザヤ 55:8)
あんまりだわ。そんな思いが、まるで鎮めることのできない拍動性の頭痛のように、頭の中を駆け巡りました。父が癌と診断されたのです。神さまが癒してくださることを願い、信仰のすべてを振り絞って祈りました。わたしの祈りに対して、どうしても神に「癒してあげよう」と言って欲しかったのです。
父が亡くなった時、わたしは打ちのめされました。父は稀に見る親切で、信心深く、寛大な人でした。なぜ、善にまします神が父を癒してくださらないのか?その問いは、わたしを苦しめました。裏切られたように感じ、孤独でした。
その後の来る日も来る週も、わたしは神と闘い、無意味感に意味を与えようと必死でした。ある晩、わたしは車の中に座り、自分が味わっている苦い現実について、神に対して持っていた認識と折り合いをつけようとしていました。涙ながらに神に訴えました:「神さま、どうして?どうしてか教えてください」と。
するとすぐに、イザヤ書55:8が思い浮かんだのです:「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と主は言われる。
この言葉こそは、わたしが必要としていたものでした。想像もできないことが起こった後でも、神はやはり神にましますのです。そして、神が何をしておられるのか、それがどうやったら善きものとなるのかを測りかねている時でも、神にはご計画がおありなのです。神のご計画はやはり善であり、それはわたしの理解力を超えています。
その瞬間に、わたしは自分が幼子のようになっているのに気が付きました。あんなに欲しかった甘いアイスクリームが買ってもらえず、必死で懇願した頃の自分です。あんなに絶対に良いものなのに、良い親がどうして拒否するのだろう?と不思議だったものです。
アイスクリームを食べると夜通し頭が冴えてしまうし、翌日機嫌が悪くなるからだといくら説明されても分からない幼児のように、神がいくらダメの理由を説明してくださっても、わたしには分からないのだろうと、はたと気が付きました。わたしは、幼子のように、お答えが否であっても、神が善にましますことを信頼する必要があるのです。
「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている」(イザヤ55:9)。
どれほどわたしが頑張っても、神がどのように働かれるのかを充分に理解することはできないでしょう。でも、その必要がないというのは、福音なのです。結局のところ、信仰とは見えないことを信じることであり、理解できなくても信頼することだからです。
人生は予期せぬ形で進行することがあります。結果として、答えよりも疑問の方が残ることもあります。神ご自身が説明してくださればいいのに、と思うこともあります。そうした感情に嘘偽りはありません。でも、人生の苦難に遭い、絶望したり、神の御志を問いたくなる時はいつも、神がわたしよりも遥かに多くをご存知で、如何なる浮沈においても神はわたしに良かれと思って働いておられるのだということを、わたしは思い起こすのです。
今宵は、理解する必要はないのだと言うことを知って、お休みくださいね。ただ、神に抱き締めてお貰いなさいな。私たちの理解の埒外にあっても、それは神のご配慮の埒外にあるのでは決してないことを、忘れないように。
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父なる神よ、今宵、わたしの心が疼いていて、頭がグルグル回っていることを御身はご存知です。祈りへの御身のお応えが否の時がありますが、どうしてなのか分かりません。でも、分からなくても、御身が善にましますことは存じております。御身がなさることは御承知の上でなのだということ、そして、御身がわたしを愛してくださり、決してわたしを見捨てることはないと約束してくださったことを、ちゃんと理解して眠れるように助けてください。御身のなさることを分かる必要がないようにしてくださり、ありがとうございます。御身の優しいご配慮の中で休む時、わたしの心が、御身の善にまします御働きを今後も信頼し続けることができますように。イエスの御名によって、アーメン。
神は私たちよりも遥かに多くをご存知で、
人生の如何なる浮沈においても、神は私たちに
良かれと思って働いておられるのだ。