・・・がありさえすれば

四十四日目

・・・がありさえすれば

Beth Knight

ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。
しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。
(詩編 20:7)

真夜中に泣き叫ぶ双子の赤ちゃんの寝室に向かって、もう一度廊下を行き来している時、夫は皮肉っぽく軽口を叩きました:「神さまは、僕らを愛して下さっているなら、眠らせてやりたいと思わないのかね?」二人とも、疲れた笑みを浮かべて、赤ちゃんたちを寝かしつけ、自分たちの寝室に抜き足差し足で戻りました。
その九年後、わたしは眼が冴えて眠れず、ベッドの中で仕方なく寝返りを打ちました。又もやです。この疲れ果てた季節を、可愛いとかユーモラスと受け止めることができませんでした。なぜなら、この季節は一時的な新たな段階とは違い、終わりのないもののように思えたからです。

わたしのように、あなたもキリストに忠実に生きたいと思いながら、体が疲れて思うように動かないですって?人生のこの時期は、持病を抱えているわたしには睡眠がものすごく大切だと感じます。そして、朝陽が昇る頃には、育てるべき子供がいて、愛すべき夫がいて、大切にすべき友情があって、闘うべき内面の罪があります。
日々の仕事で疲れて、重たい眼と手足を持て余したわたしは、毛布を深く被って神に問いかけます。「不眠と慢性的な疲れが絶えまなく続く時、御身がなさいと仰ることすべてを、どうやってやればよいのでしょうか?」と。

夜の静けさの中で、静かな小さい声が優しく語り掛けてくれます。わたしの自信は如何によく休めたかにではなく、如何によくキリストの内に休めているかにあることを。

詩編20:7が思い浮かびます:「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」。
一見したところでは、戦車と馬を持っている兵士が有利なように見えます。ところが、ダビデは闘いの勝利は主の御名にあることに完璧な信頼を置いていました。

詩編の他の個所にも、その信頼が歌われています: 
「馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない」(詩編33:17)。
「神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました」(詩編 33:17)。

わたしも戦車や馬には信頼を置かないかも知れませんが、世俗的な有利性が自分の成功を約束してくれると思っていることには良心の呵責を覚えます。____がありさえすれば、妻として、母として、友人として、もっとキリストを映し出す鏡になれたのに、と思うことがよくあるからです。良く休めて、もっと良く眠れて、すべてを自分流にやれたら、日々の闘いへの備えがもっと良くできたように感じられるのかも知れません。けれども、聖書は、勝利が主の御名を呼ぶことに、主の御力に頼ることにあるということを教えているのです。

どれほど困難であろうと、消耗し尽くしているということは、キリストに完全に頼り切ることを教えてくれているのですから、それは神からのギフトとも言えます。神に頼っている今は疲れ切っているかも知れませんが、自分の力でキリストのために生きようとすることほど、消耗することはないのでしょう。

ですから、大切な友よ、これに勝ることはないのです。つまり、キリストの兵士となるのに必要なことは、まず弱くなるということです。私たちは、身体的な強さを願い求めますが、あなたとわたしが闘いに最も強くなるのは、膝まづいて祈る時なのです。

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天の御父よ、わたしは心身ともに疲れ果てています。自分の力に頼らず、御身の御力に頼る恵みをどうぞお与えください。日々の闘いへの勝利も、わたしの中で、わたしのために働いておられる御身の御力によるものであることを、いつも思い起こさせてください。今宵、すべてが御身の御手にあることを知って、心安らかに眠ることができますように。イエスの御名によって、アーメン。

私たちの自信は如何によく休めたかにではなく、
如何によくキリストの内に休めているかにある。